私がアートについて語るのもおこがましいと思いつつ、書いてみる。
表現者の方々には当たり前すぎる話かもしれません。
小中学生のころの私
みたものをみたまましか受け取ることができない
きれい・汚い、好き・好きじゃない、うまい・うまくない
アートの「可能性」に気付いたのはたぶんピカソをたくさん観たから
『泣く女』などで有名で美術の教科書ですべての人が見たことあると思う
こんなんなら自分でも描けるのでは?なんて思っちゃったりなかったり
それまでもピカソの絵は細切れにいろいろなところで見ていたけど、バルセロナのピカソ美術館で『ラス・メニーナス』の連作を見たときに初めてなにかが腹落ちした
『ゲルニカ』もそう
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彼の絵は簡単に描いたように見えるけど、ものすごい沢山の習作がある。
同じテーマを何回も、何百回も、何千回も実は描いている
その中で彼は考えている
何が一番伝えたいテーマの骨となる部分なのか
だから肉をそぎ落としていって、芯の骨の部分だけを抜き出す作業を彼はずっとしてるんだと、
そんなふうに思った
それではじめて、彼が本当に伝えたいこと(彼にとっての本質)を自分の中でも追求しているし、絵としてそれをやってるんだと思うようになった
大変な作業ですよ
ラス・メニーナスいろいろ
絵を見て単純に癒されるとか綺麗だとか以外の感想を持ったのはそれが初めてだった
メタファー
私はお寿司を描いてますが↓
お寿司にはストーリーがない
私がお寿司が好きだという程度のメッセージ(?)性しかない
(それはそれでシンプルさが気に入ってるけど)
絵というのはただの「絵」ではなくて、ストーリーがあって、メッセージを隠せる(メタファーできる)のだということに気付いてから、じゃあ何を描こうかなぁと思うわけです
何が私にとってとても大事かなぁと
好きなことや大事なことじゃないと表現は続かない
それはお寿司を1年近く描いて気づいた
ちまちまちまちまとずーっと面と向かっていないといけない作業で
楽しくないこと・大事でないことなんてやりたくないのです。
宮さん(宮崎駿監督)のbotも言ってた
悪役を倒してハッピーエンドという映画だと、悪役を一生懸命作らなきゃいけないんですよ。
— 宮さん(宮崎駿)bot (@miyasan_bot) 2016年4月22日
それは、絵を描く人間にとっては、あまり楽しいことではないんですよね。それで、悪役を出すのをやめました。
映画であっても、ものを考えていない人間は出演させたくない。苦労して描いているのに、どうして、そんないやなやつを出さなきゃいけないんだって思ってしまうんです。
— 宮さん(宮崎駿)bot (@miyasan_bot) 2015年5月2日
作家にとって、表現している内容は彼らが人生の中で相当大切にしていることや、訴えたいことなんだろうと思うと、作品がすごい叫んでるように見えてくるのです
音は発してないけどすごい無音で叫んでる
寡黙な芸術家でもその実すごい自己主張強いんだなぁと
でもアートは受け取り方を押し付けてこないから、静かに観察して、理解してってできる
自分の理解の仕方をその場で否定されたりってことはない
そこがうるさすぎなくて好きなのかなぁと思ったり
でもアーティストの方の話を聞くのも、とても楽しい
人生の一挙手一投足はアートだ、とも思います
というのは、我々が大事にしていることを日々いろいろな方法で体現してるということ
なにげない一言でもきっとそうなんじゃないか
と思ったりするのです
以上、ではまた
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